人 生 後 半 を 楽 し み た い

『無人島に生きる十六人』/須川邦彦

明治31年に遭難漂流した16人の無人島生活の実話。

明治時代の話。冬の間、雪と氷に閉ざされ冬ごもりをする北日本の漁船や小帆船は二百隻もあったらしい。

座礁沈没した龍睡丸は、元は千島列島北東端の占守島と内地を結ぶ連絡船。

秋~春までは東京の大川口につないでおくだけだったので冬の有効活用として太平洋の資源の新規開拓、漁業調査に行く事になった。

この結果が良ければ、冬ごもりしている多くの船も働くことができ、それは日本の為にとても良い事になるという。

前半はその為の計画や船の準備の話が進んでいく。

あるのか無いのかわからない海賊島を見つけたい、そうしたらその島で帆船航海者が苦しむ壊血病予防の野菜を作りたい、南の海に浮いていたり島の海岸に打ち上げられている龍涎香を拾いたい。といった話は興味深かった。

長い年月の航海で何カ月も陸地につけず、大時化にあっても耐えなければならない為の準備をして⇩

  • 強い船体に海図、六分儀、経線儀、羅針儀の準備。
  • 漁業調査の釣り針、釣り糸、ふか釣り道具、ふかの油を搾る道具、カメの油を搾る釜、捕鯨用具一式。
  • 健康や衛生を考え、糧食庫には脚気予防の為、麦飯も入れ、飲酒禁止、水の確保、衣類、毛布の用意。

そして乗組員は若者から経験豊富な老人まで海の勇士16人が集められ、明治31年12月の暮れに東京を出帆する。

新鳥島やハワイ諸島を航行し調査も済み、ふかや海がめ、海鳥で大漁になった龍睡丸はあとは日本へ帰るだけだった。

明治32年5月、帰るその途中ミッドウェー近くのパールエンド・ハーミーズ礁で大嵐に遭い座礁。

星もない暗い夜の中、大嵐に遭うなんて想像もつかない恐怖だ。

命が助かった16人は漂流後に環礁の名もない何も無い小島にたどり着き、すぐさま粉々になった龍睡丸から残っている食料を小型の伝馬船に積み運び出す。

日本に連絡が取れないまま、この後何年続くかわからない無人島での生活なんて絶望しかないと思えてしまう。

けれど、中川船長は知識も知恵もあり、統率力もあり、瞬時の判断力も素晴らしい。

保存のきく食料は取っておいて、ここで捕れる魚や亀を食べ、服が傷まないように冬の事も考えて裸で暮らすことになった。

初めに飲み水に苦心する。

掘ってみた井戸からは塩水しか出ない、それを蒸留するが薪を沢山使うのに少ししか作れない。

草の下には水があるはずと掘って塩辛いけれどナントカ飲める水を確保出来た。

次に4つの決まりを作った ⇩

  • 島で手に入るもので暮らしていく
  • 出来ない相談は言わないこと
  • 規律正しい生活をすること
  • 愉快な生活を心がけること

絶望的な生活の中で1人でも不愉快だと伝染し健全な生活が出来ない。

1人1人が皆の為に愉快でいるよう心掛けるのは大切な事だ。

それは無人島で無くても、今の時代でも、家族でも、、、と思う。

無人島での生活を無駄にしないよう、いつか日本に帰った時に役立つように黒板はスコップや釘を使い、ノートは砂浜で若者たちに勉強を教えている。

一番心に残ったのは、船を見つけて助けを求める為に砂山で見張り櫓を作って、当番制で見張りをする時の最初の晩に若者が次々と立候補するけれど、「昼間、力仕事をする若者は夜良く寝るようにと」、静かに制して一番の長老の小笠原老人がなった。

夜の見張りというのは気を付けなければならないらしい。

無人島の夜、あてもない暗い海を見張りながら色々な事を考えだして、気が弱くなる。

心細くなり懐郷病に取りつかれ命取りになりかねない。と夜の当番は若者ではなく老人達4人がすることになった。

経験の浅い若者ではなく、何度も遭難し沢山の困難を乗り越えてきた経験のある年長者達が相応しいと。

年寄りだから敬って先に休んで。ではなくて、若者を思いやった老人たち。

若者と年長者が知恵を出し合い、敬意を払い協力して愉快な生活を送っているのは、今の時代と大違いで逆に豊かに思えてくる。

大変な無人島生活だけれど、アホウドリやアザラシ、鯨、海亀の種類や特徴の話も面白く、正覚坊(アオウミガメ)の焼肉が美味しい事もわかった。

無人島生活4カ月経った時、水平線の向こうに見えた船に助けを求めに行き、16人全員が無事に日本に帰ることが出来た。

この本は龍睡丸の中川船長の話を教え子の作者が覚えていて物語にし、あとがきを書いた椎名誠が昔出版されていた事を知り、再び出版されたという。

中川船長はまえがきで「日本の海の男として当たり前の事をしただけ」と書いているけれど、日本は海に囲まれ恵まれた素晴らしい海洋国で昔の日本人は偉大だったと思った。

とても勉強になり教訓になり読んで良かった。

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